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アメリカの人種差別

 投稿者:sekko  投稿日:2017年 8月23日(水)01時18分10秒
  アメリカは独立戦争においては、フランスのフリーメイスン(自由・平等・博愛はフリーメイスンの標語でした)の協力を得て、普遍主義を表明していたのですが、19世紀半ばのアンチ・フリーメイスン運動を境にしてヨーロッパ起源から分かれることになりました。
人種差別や先住民問題とマッチしなかったからですね。

フランス革命型の政教分離の啓蒙思想は、不道徳で不信心、カトリックか無神論だとして退けられ、同じ階級の成人男性が集まるアングロサクソンのクラブ文化に回帰していったのです。

善きアメリカ市民共同体の利益ファースト、ですね。その辺は『フリーメイスン』第二章に書いてあります。

この掲示板は一応パブリックですから、文脈の趣旨をリスペクトしてくださる分にはやり取りを転載するのは問題ありません。



http://www.setukotakeshita.com/

 
 

Sekko様

 投稿者:小寄道  投稿日:2017年 8月21日(月)01時23分26秒
  早速の返信、感謝いたします。

アメリカ社会の現況を見るにつけ、トランプ大統領の誕生と、白人至上主義の表面化は間違いなく呼応しています。
それは宗教的な行き詰まりというより、根本的には産業経済のそれに端を発したものでしょう。
宗教と経済基盤は深く通底していて、いわばアメリカの骨格を形成している。
もしそれが崩壊する軋みを見せたら、「帝国」の力を見せるのではないか、と私は畏れています。

彼らのかつての主流秩序には、「自由、平等、博愛」のコードはありました。
特権階級や富裕層は、そのコードを揺るぎないものとして、世界に誇示し見せていた。
いま、その片鱗さえなく感じさせない。どうしたのだろう、アメリカは。

この掲示板の応答を、私のブログに部分的に引用してよろしいでしょうか?(全部なら、なおのこと希望)
ご氏名なども併せて紹介したいのですが、問題ありませんか?

なお、22日より3日間、広島に旅する予定です。書くのはその後を予定しております。
何卒、よろしくお願いします。



 

小寄道さま

 投稿者:sekko  投稿日:2017年 8月20日(日)23時34分30秒
  まったくおっしゃるとおりです。

この件は、10月に中公新書ラクレから出る予定の『キリスト教は「宗教」ではない』や、今執筆中の単行本で「神・金・革命」の偶像化の歴史を書いているものと大いに関係があるので書きだすときりがないので、ブログでは一般論に留めておきました。

前回お話した、『フリーメイスン』のジャズの歴史にもあるのですが、ともかくアメリカのプロテスタント教会というのは、黒人教会と白人教会とに分かれていた(今は建前上分かれていませんが実質的に分かれている)時点で、全然「普遍教会」でもなく、「自由・平等・博愛」の場所でもないんですね。

こう言い切ってしまうといろいろ語弊があるからこそ書いていないんですが、アメリカの中西部とか南部とかの、「普通の白人」の「宗教」は「共同体宗教」であって、氏神様を祀る町内会みたいなエスプリです。

地元の英雄だとか地元の「伝統」を維持したり復活させたりするために役立つ人物はみな崇敬されるべき「聖人」なんですよね。

アッシジのフランチェスコの平和の祈りとか太陽の賛歌と、ヴィクトル・ユゴーの革命賛歌はそっくりなんですが、ユゴーは「あらゆる宗教を廃止せよ」と言っています。社会の中で「宗教」組織という形をとる時点で、「宗教」は人間のあらゆる活動と同じく「お仲間ファースト」になるからでしょう。

その意味で、アッシジのフランチェスコのキリスト教は、「宗教」ではなかった、と言えます。ナザレのイエスが「キリスト教信者」でなかったのと同じですね。

いつか詳しく書いていくつもりです。

http://www.setukotakeshita.com/

 

南部アメリカの銅像と宗教

 投稿者:小寄道  投稿日:2017年 8月20日(日)22時22分12秒
  「アメリカ南部の話だけなどでは、ない」のですが、
あのエリアはどうも特有な何かがある印象をもちます。
アメリカに行ったこともないし、詳しい知識もありません。
予断を避けなければなりませんが、いわゆるアメリカの南部そしてラストベルトといわれる中西部に住む白人の人たちは、主としてキリスト教のプロテスタント系、或いは原理主義の信者が多いですよね。
そうした彼らの心性には、偶像崇拝は所与のものとしてある。

そのことと、自分たちの祖先の英雄、偉人の銅像を建てることに、なんらかの影響なり、関係はないでしょうか?
自分たちの存立基盤とか、宗教的な属性を銅像に仮託してはいないだろうか。?

南北戦争の敗戦後、そして60年代の公民権運動の実質的な敗北のとき、
先人の銅像は「雨後の竹の子」のように建てられました。

アメリカにおけるプロテスタント系キリスト教の束縛は相当なもので、
白人至上主義はそうしたものから生まれてきたのではないか、と私は考えているのですが。
的はずれ、考えすぎだったら、それはそれでいい。
竹下さんのお考えをお聞かせください。
 

amen

 投稿者:sekko  投稿日:2017年 8月18日(金)23時57分31秒
  let it be. 実は、私もそれを書きかけたのですが、ふと、過激化して自爆テロに走る人たちなどの心の中でも、いつか、「意を決する」という段階があったのかなあと想像すると、微妙な気がして…。 結局、どんな決意にしても、自他を含めて「命を粗末にする」方向には絶対に向かわないという基本枠は逸脱しないというのをまず決意しなくてはならない、ということですね。

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「決意のもとに応えるという自由意志」

 投稿者:jean  投稿日:2017年 8月18日(金)23時00分51秒
  お告げも、そうなんでしょね。
「仰せのごとく我になれかし」。
 

じゃんぬさま

 投稿者:sekko  投稿日:2017年 8月18日(金)06時48分30秒
  そうなんです。

「決意のもとに応えるという自由意志」なんですよね。

自由意志がある、とか許されているとかいうだけでなく、「意を決する」ということに意味があるんだなあと思います。

納得するとか理解するとか単に受け入れるというよりも、「意を決する」ということによってとにもかくにも「前に進む」ということが必要な局面が人生にはありますね。

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ルルドの話

 投稿者:sekko  投稿日:2017年 8月18日(金)06時43分14秒
  ルルドについては解説的なものでは『奇跡の泉ルルドへ』NTT出版があり、紀行文的なものには『聖女の条件』(中央公論新社)に書いています。

いろいろな思い出があります。今は洪水被害や対テロの厳戒態勢などでなんだか腰が引けていけませんが、また行ってみたいところです。

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被昇天について

 投稿者:じゃんぬ  投稿日:2017年 8月17日(木)12時57分48秒
  被昇天について、「assumptioというのは、決意して、あるいは納得して引き受ける」という語源に基づくということ。心に響きました。引き上げられるという受動だけではなく、召出しに決意して答える、受け止めることによって、神と人との関係性が完結する相互性を想いました。

神からの愛、メッセージ(そこには自分には理解を超える出来事も含まれると思います)に決意のもとに応えるという自由意志があたえられているということですね。
 

8.15

 投稿者:小寄道  投稿日:2017年 8月17日(木)01時10分56秒
  とても参考になり、学ぶべきこと、嬉しいことが一緒にきた感じです。
ありがとうございました。

8.15という数字は、因縁というか日本に関係する符号の多い数字ですね。
広島の原爆投下も、確か8時15分でした。
新聞連載の平和俳句という企画記事に、中学生が8.15をテーマにした句を最近投稿していて、
その時間を知ったばかりなのです。

コルトレーンの「至上の愛」もご存じなんですね。
私はいまだに好きで、偶に聴き、ベースラインは自分でも遊びで弾いています。

だいぶ前ですが、奥さんのアリス・コルトレーンと息子、そして昔の仲間たちが、
教会のようなところでライブしていた映像をみたことあります。

竹下さんの「フリーメイスン」は未読です。
絶対に読みます。

あ、ルルドの報告、読みたいです。
以前に映画に関連したルルドの記事を拝読して、印象に残っています。


 

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