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若生敏由 さま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年11月 4日(木)19時24分56秒
  わざわざ観なおされたのですね。

RとL、BとVの 聴き取りは、少なくとも3歳未満に聞き分けないと、日本人には難しいですね。
私も45年フランスにいますが、文脈でしか聞き取れません。だから固有名詞などは
フランスのよくある名の Roland と Laurent なんていつもあせります。カタカナだとどちらもローランです。o と au の「オ」も厳密には違います。anとen はつづりは違っても同じですが。
スペイン人もBもVもほぼ同じ発音なので聞き分けないようです。

アメリカ英語は特に子音をのみこんじゃうので私は聞き取りが苦手です。
でも外国人同士の英語での会話は分かりやすくて便利ですが。

また、読み書きに不便がなくても映画のセリフを聞き取るには数年かかりました。
今でも、俗語系は、聞き取れないというより、どんどん変わるし、俗語語彙が貧困なので、そういうのが多い映画には聞き取れないものがたくさんあります。若い子のSMSなんて書かれていても謎だったり。今の日本語も、もう私の分からないものはたくさんありそうです。

若生さまの件のレポート、講師の方はどういう評価なされたのかしら、とちょっと気になります。

私は最初からトムが主役で、タイトルの意味だと思って観ていました。だって、ジョン・ウェインだから。

でも、アメリカって、アングロサクソンの判例主義で、フランスの法治主義とは違う伝統です。だから差別を含めた過去を引きずりやすいのかと思います。

聞き取りバイリンガルは無理ですが、そこいらのバイリンガルの人よりずっとバイカルチャーだと自認している私は、年とるにつれてどんな映画を観ても、複眼視できて楽しいです。

 
 

あらためて映画を見た感想

 投稿者:若生敏由  投稿日:2021年11月 4日(木)13時41分55秒
    ご指摘を読み、なんとも恥じ入るしかありません。Liberty ValanceをLiberty Balanceと思い込み、RanseをLanceと勘違いしていたわけですから。あの映画を見たとき、字幕付きということで、リスニングに自信のない私は、ほとんど字幕を追いながら展開を理解しようとしていました。そのため、作品の狙いについても、自分の関心の都合に引き寄せながら、分かったつもりになっていたようです。あのレポートは、結局は私の非力さをとどめたものにすぎません。
 そこで、消せない恥を噛みしめながら、せめて思い込みを解消しようという気持ちになり、アマゾンであらためて『リバティ・バランスを射った男』を鑑賞し直してみました。
 今度は食い入るように映像を見つめ、台詞に聞き耳を立て、作品の狙いをありのままに捉えようとしました。そうして気づいたことを、いくらか述べることにします。

 初めてあの映画を見たときは、主人公がランスだとおもっていた。けれども、今回は、実はトム・ドニフォンの方が主人公らしくおもえた。ランスの告白が終わって、地元紙の編集長が取材メモを破って語った言葉が、おそらく作品の狙いを反映しているのだろう。

 "This is the West. When the legend becomes fact, press the legend."
 「ここは西部だ。伝説が事実になったら、伝説を報ずるのさ」

『リバティ・バランスを射った男』というタイトルは両義的なのではないか。その事実はトム・ドニフォンのことであり、伝説としてはランサム・ストッダード。そして作品の展開は、称賛される伝説を生きる男の背後には、実は無法時代の苦難を引き受けた強く優しい男の自己犠牲的な生き方があったことを伝えている。トム・ドニフォンは、欲望と力がせめぎあう時代が創意と智恵を工夫する時代へと転換する、過渡期の課題に誠実に答えようとする人物におもえた。

 もうひとつ、印象深い台詞がある。西部に向かう幌馬車を待ち伏せていたリバティ・バランスが、乗客の金品を強奪し、女性を守ろうとしたストッダードを残虐に叩きのめしたときに発した言葉。

 "Out here, a man solves his own business."
 「ここではな、ひとは自分のことは自分で片付けるのだ」

 確認違いでなければ、後にランス自身も、ドニフォンとのやりとりで同じ台詞を述べざるをえなくなったはず。個人の自立、社会の自治が定着する前段階では、「自分のことを自分で片付ける」いとなみのせめぎあいや葛藤が避けられなかった。そのせめぎあいや葛藤を適度に調停したり緩和する存在が、ドニフォンのような強くやさしい男だったのだろう。

 トム・ドニフォンとリバティ・バランスは、無法地帯に必要最小限の秩序がととのう条件の両極にある存在だった。つまり、脅迫的な支配力と強固な防衛力。それらは、西部の開拓地に生きる男たちの野望と本能が奔放に露出されていた時代の秩序に見合う力だった。やがて開拓地にも町ができ、女性や子供たちがともに暮らす地域となった段階では、「自分のこと」だけではなく「共にいる自分たち」を守る秩序が要請される。その要請に応える力は、必ずしも武力ではなく、望ましい約束や契約を可能にする言葉の力になってくる。その言葉は、「共にいる自分たち」のおもいを集約する理念に裏づけられる必要がある。その必要を満たすのが、守りつづけるにあたいする言葉としての法というものだった。

 法が定着するためには、「共にいる自分たち」で法に求められる精神を学び、規範とすべきことを合意し合うことが必要になる。そうしたいとなみが「共にいる自分たち」の生活習慣として揺るがないありかたになれば、リバティ・バランスのような脅威を抑制する可能性が高まるし、トム・ドニフォンのような強くやさしい男の防衛力に頼る必要も少なくなる。無法地帯の秩序を両極から測り合っていた男たちが、自己破壞や自己犠牲によって消えゆくのも、時の流れだったのだろう。

 以上のような感想を抱いた後で、主要な登場人物の名前についても考え直してみました。往生際が悪いかもしれませんが、それについてのメモも記してみます。

Liberty Valance
・valance: 前飾り、掛け布 < descend, go down
⇒ 自由を衰弱させる存在

Tom Doniphon
・doni <do or don:  一定の状態におく,与える、
・phon<phone: 音、声
⇒ 折々に妥当な声を発する存在、不測の事態にも対応する力の担い手
   欲望と力がせめぎあう時代から創意と智恵を工夫する時代への過渡的存在

Ransom Stoddard/ "Ranse"
ransom: 身請け、解放、あがない
dard <Dardan: Trojan
    <Dardanus: ZeusとElectoraの息子、トロイアTroy、人の祖先
⇒ あえて苦境を引き受け平穏な秩序を求める
  約束や契約にもとづき、お互いの自由を尊重し合える社会のいしずえとなる
    無名な者の自己犠牲に支えられながら、称賛のまとになる伝説を担う
  公衆が望む役割に徹する

Hallie< hallelujha; holy
  賛美、神聖さの響き

 かなりこじつけがましいかもしれませんが、作品を生かしている個性から類推してみた次第です。
 

若生敏由 さま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年11月 1日(月)18時23分56秒
  名前に注目されたレポートを興味深く読みました。

私が考えたのは、「リバティ・バランス」のリバティは「自称」か、人々がつけた通称だったのだと思います。自由の執行人(実は無法者ですが)という意味でリバティというだけの名前はむしろ女性名だと今は意識されていると思いますが。
バランスが Balance ならリバティと込みの通称の気もしますが、Valance は分かりません。

まあ、映画の設定の時期と制作時と今がばらばらなのでよく分かりませんが。

ピリグリムというあだ名も単に「よそ者」という感じだと思いました。

ランスという名は、ドイツ語にもフランス語にもありますが、「槍」という語源はゼロでした。
ランスはこの名で選挙に立候補し、知事や上院議員にまでなっているのですから本名でしょうが そもそもLanceでなくRansom(通称でRanse)ですからこの映画で暗示的な意味はないのでは?

自由や法治政治の意味は「識字」と「教育」によって養われるというテーマはその通りですね。
 

『リバティ・バランスを射った男』について

 投稿者:若生敏由  投稿日:2021年11月 1日(月)15時06分27秒
  『リバティ・バランスを射った男』の紹介を、興味深く読ませていただきました。

<<「サボテンの花」がアメリカの広大さと、東部と西部の異質さのシンボルのようになっているわけだ。>>

 このような理解、さすがだなとおもいます。

 私がこの映画を見たのは、14年前のことでした。見たのは、映画館ではなく大学の講義室ででした。県立高校の教員として、退職まであと数年という時期だったのですが、学校図書館の運営責任者となり、司書教諭の免許を取得したほうがよかろうというおもいで、夏休みを利用して地元の大学で必要な講座を受けることにしました。そのときの担当教員が多趣味な方で、講座の最後にこの映画を見せて、単位取得の条件として、レポートの提出を要求したのです。
 西部劇はそこそこには見ていたのですが、この作品の存在はそのときまで知りませんでした。鑑賞しながら、自由について柔軟に考え直す必要を感じたのを憶えています。
 印象深い映画作品を思い出させていただけたこと、竹下さんなりの見方に触れることができたこと、嬉しくおもいます。

 実は、かつて書いたレポートの原稿を読み直してみました。少々長めですが、一読していただければとおもい、おもいきって、ここに貼り付けさせていただきます。



『リバティ・バランス』という映画は、魅力的でありながら不思議さが残る作品だった。

 なによりもまず、悪役の名がなぜリバティ・バランスとされたのか。リバティは自由あるいは解放という意味だし、バランスは均整あるいは安定という意味だ。どちらも、普通は肯定的な意味でしか用いられない。ところが、あの映画のリバティは、まだ州として自治が確立する以前の西部の地で、どこかの牧場主に雇われている用心棒という風体で登場する。雇主からの給金だけでは満たされない欲望を、旅の途上の幌馬車を襲撃して金品を強奪するという手口で充足させている。どう見ても、その挙動は無法者であり、ならず者というという枠組みにしか収まらない。作品の舞台であるシンボーンという町の住民は、その名を耳にしただけで恐れをなし、その姿を見れば震えあがって静まりかえってしまう。そういう役柄にリバティ・バランスという名が与えられている。

 脚本家の狙いは何なのか。なにもかもは分からない。そこで精いっぱい推測をはたらかせることにした。確信は持てないが、リバティに対抗する主人公ランスの別称を手掛かりにしてみた。

 映画のなかで、主人公を取り巻く人間のほとんどは、当人をそのままランスと呼んでいる。ただ、度胸のよさと銃さばきでリバティにも一目置かれているトム・ドニフォンだけは、ランスをなぜか「ピルグリム」と呼びかけていた。字幕では、それを「先生」と訳していた。おそらく、その役柄を意識して「弁護士先生」とでも捉え直したのだろう。捉え直しが悪いわけではないが、それでは原語のもつ含みが薄まってしまう。おそらく脚本家の念頭には、「ピルグリム・ファーザーズ」という言葉が去来していたはずだ。そうおもうのは考えすぎだろうか。しかし、西部の地にアメリカの良心を体現する人物を赴かせるとなれば、「新世界」の原点でもある言葉は、少々からかい気味の言い方がなされていても、やはりその属性をこめて用いられているだろう。

 ピルグリム・ファーザーズを、まだカタカナ表記にためらいがあった時代の日本の教科書では「巡礼始祖」と訳していた。その訳語には、使命感を抱いていた移住者たちが清教徒であったということで、多分に宗教的な含みがとどまっていた。ピルグリムという語だけを取り上げるなら、「遍歴者」「放浪者」「旅人」としても用いられる。このようなことを背後に置くと、あの映画の主人公は、旅人は旅人でも「理念や信念を持った旅人」という存在として見えてくる。さらに、ランスが弁護士であるということを踏まえれば、西部の事情をよく知るトムからピルグリムと呼ばれるのにもそれなりの根拠があったのだともおもわれる。

 ランスという名は、「槍」を意味する。またその名に近い「ランスロット」という言い方になると、アーサー王物語の円卓の騎士のなかでもっともすぐれた騎士の名になる。すると、ランスという名は、直接的には武具を意味して必ずしも肯定的ではないが、そこにピルグリムという属性が加わると、肯定的な含みが際立ってくる。ランスという主人公は理念の実現のため、あるいは未熟な理念を鍛えるために、ひたむきにたたかうという建設的な使命を担う存在だったのだろう。

 そうすると、ランスとリバティ・バランスの対抗関係はどうなるか。リバティは、名前は肯定的であるとしても、そのなりふりは否定的で、恐怖そのものの役柄を与えられている。それは自由という理念が無法と変わらないありかたにとどまっていることの象徴ともとれる。無法者が求める秩序は、暴力による威圧的な均衡状態(バランス)以外にはない。そこに「理念と信念を持った旅人」(ピルグリム)が現れ、あえて武器に手を出す役柄(ランス)を引き受け、威圧による秩序ではなく法による秩序を形成するいとなみにいのちを賭ける。映画の展開は、ランスの働きかけによって、シンボーンの町が、おそるおそるの歩みながらも、どうにか自由の秩序を定着させていく流れになっている。それは、悪漢リバティの無法状態を克服し、理念にもとづく安定した(バランスのある)コミュニティを実現していく過程である。もっと言うなら、リバティとバランスという言葉が本来の肯定的な意味に生まれ変わっていく過程でもあるだろう。同時にそれは、自由であることが肯定的な理念であるためには、法による保証を不可欠とするのだということが了解される過程にもなっている。リバティ・バランスは、そのような過程が現実のものとなるために、意味ある障害を体現する悪役だったのだ。言い換えるなら、その役柄は、自由が恣意的なありかたにとどまっていて、正義を望む声が法を引き寄せる以前の段階の無法者であり、その威圧力に永続性があるわけではないという証しなのだろう。

 言わずもがなだが、自由とは何でもありということではない。特定の生き方や一様の価値や権威にとらわれることなく、それぞれの人が個人的によき生き方を求める条件こそが、自由の出発点になる。つまり自由は求めるものではなく、むしろ守るべきものなのだ。したがって、守る手立てのないところには自由はありえず、よき生活も望めない。

 では、自由を守るものは何なのか。それぞれの人が求めるよきあり方が対立したり矛盾したりしないような配慮の必要を保証する力が自由には欠かせない。そうした力といえば、やはり多くの人々が納得する妥当な理念にもとづく法になるだろう。

 法を制定すれば、いつでも秩序が安定するわけではない。その次には、法を共同社会に定着させる工夫が問われる。『リバティ・バランスを射った男』という映画は、その工夫の必要な現実と、その現実を生きる人間の多様なありかたを、説得力のあるやりかたで描いてみせた。その際、一方的に理念を振りかざすのではなく、苦悩を強いられながらも、地道に学び合う人間関係を結ぼうとすることが理念をはぐくみ、さらには法を根付かせていくのだというような展開がとりわけ好ましかった。


 だらだらとして、迷惑だったかもしれません。
 失礼しました。









 
 

テレサさま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年10月17日(日)19時03分52秒
  ブログのご愛読ありがとうございます。

数学、物理系番組や一般書で数式が登場するたびに、単に「難しすぎる」というだけでなく、何とか基礎に立ち止まって理解しようという気もなくスルーする自分を見て、人文系のものの「難しさ」への想像力が発動した次第です。

『バロック音楽はなぜ癒すのか』は、私とアートの関係を根本的に変えてくれた「綱領」みたいなものでした。その後もサイトやブログのバロック音楽室や音楽、踊りのカテゴリーで各論も深めていっていますが、「分かりやすさ」の配慮はゼロです。

この本は、私のトリオが最初に日本公演をした2003年に同時に発売しました。
私の音楽体験のすばらしさを、一生一度でいいから何とか生で日本の友人たちに伝えたいと思っていた時に笹川日仏財団の助成金を得て、教会やお寺やらで11度のコンサートをやりました。
会場の提供や告知などをしてくださった人も来てくださった人の多くも、演奏者としての私ではなく少数の熱心な読者の方でした。

そのコンサートに当たって、この本を書くことで、私の他の本とフランス・バロックの世界観が連動していることを知っていただこうと思ったのです。

「文化人の音楽趣味」と受け取られないように「音楽之友社」から出していただいたことはラッキーでした。実際は、本の販売をコンサート会場で開始したわけで、「本を読んでから演奏を聴く」という方はゼロだったのですが、この本のおかげで、その後、日本のバロック奏者やバロックダンサーの方々から連絡を受け、さまざまなコラボも実現しました。自分たちが思っていたことを言語化してくれた、と喜んでいただき、私たちのトリオもたくさんのことを学びました。「音楽之友社」というレーベルに支えられました。

この本から20年近く、テレサさまのおっしゃるようなラモーのオペラについての番組が日本で観られるようになったなんて感激です。

私にはyoutubeを配信するような時間も技量もありませんが、確かに、バロックバレエも含めて、音と映像で解説できればすてきです。
でも今の世の中の空気を見ると、コメント不可能なブログやこのサイト以外にすべてのSNSを避ける方針は変えられないと思います。

そういう「分かりやすさへの努力のない」ものを読んでいただいてこうしてコメントいただけることを感謝しています。

そういえば確かに「階名」「音名」が違うとか、変ロ短調、とか、日本の音楽漢字用語って、なじみがなさすぎですね。日本でも音大に行ったら、「イロハ」など誰も使わずアルファベットです。
フランスはコンセルヴァトワールの中級クラスまで階名も音名も区別せず、四分音符は「黒」、二分音符は「白」とプロの音楽家も一生使っています。すごくハードルが低いのに、小学校で教えられていないのは残念です。
 

10月10日のブログ

 投稿者:テレサ  投稿日:2021年10月17日(日)16時21分21秒
  久しぶりの投稿になります。

10月10日のブログに、「難しすぎると言って、読むのをやめてしまう人がいる」と書かれていたので、私も途中で読むのをやめてしまった著書に心当たりがあり、投稿させていただきました。


竹下先生の著書は、私は、たいていの場合「なるほど~」と思いながら、ザーッと最後まで読み、一度読んだ後、何度も読み返します。
読み返す理由は、2つあります。

一つは、書かれている言葉を何度も読むことで、励まされたり、支えられたり、自分を立ち返らせてくれるからです。

もう一つの理由は、1回読んだだけだと私も「難しくて」理解できないからです。


殆どの場合、その時、十分に理解できなくて、ページを戻ったりしながらも最後まで読むのですが、唯一、途中でやめてしまった著書が「バロック音楽はなぜ人を癒すのか」です。(先生の著書を全て読んだわけではありませんが…)


視聴する芸術を文章で説明するって難しい~と思いました。
特に、バレエやオペラについて、観客レベルの知識しかない私は、殆どわかりませんでした。
けれど、この内容を「音と動き」で説明してもらったら、わかりやすいかも~と思いました。

何故なら、ちょっと前ですが、「ラモーの音楽」がテレビで取り上げられていて、その番組を視聴した時、「イタリア・オペラ」と「フランス・オペラ」について動画を観ながら、その違いを解説していました。大変分かりやすく、この本の内容と私の中でリンクしました。

いつか、この著書の内容をYouTubeとかで観たいです(笑)


もしかしたら、「難しい」というより、理解しながら想像することが、しんどくなったのかもしれません…(申し訳ございません。)

でも、たとえ書かれている内容すべてを分からなくとも、この著書には、心に突き刺さる言葉が随所にありました。例えば「音楽もコンサートで名人芸を聴くという消費活動として定着した…」という文章には、ハッとする思いがありました。
また、音楽の歴史的変遷を知ることは、意味があるな~とか、音楽と人との普遍的な関係性にもっと思いを寄せるべきだな~ということも強く思いました。


余談ですが、私は、幼い時から個人レッスンでピアノを習ってきました。子どもの時、新しい曲を頂くと、その譜面を「かいめい(階名)で読みなさい」と必ず先生から言われてきました。「かいめい」という言葉は使てきたにもかかわらず、「階名」という「漢字熟語」を著著の中で見た時、最初、意味が分かりませんでした。さんざん耳にした言葉でも、漢字で書いたり、読んだりすることがなかったのかなあ~とこの本を読んで、半世紀以上生きてきて、初めて気がつきました。


もちろん新書の「疫病の精神史」も読ませていただきましたが、
ここに色々書きながら、もう一度、「バロック音楽~」を読み返そう!と今、思っています。






 

小寄道さま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年 8月14日(土)03時06分51秒
  ありがとうございます。

斑入りの二つの鉢のひとつ目は名札をなくしてしまいました。すぐ近くの花屋さんなので聞いてきます。

二つ目はカラテアです。名札がついています。Decorumというのはオランダの大手の園芸会社の名です。植物の名はその下に書いてあります。
黄色い花が咲いているのはカラテアです。下の写真にも葉が少し映っています。
上から見ると葉っぱが密集しているのですが、下の方の花を撮影すると、茎ばかりが映って、確かに別の植物みたいに見えますが。

こういう主張の強そうな葉が、葉陰にこっそりとこっそりと花を宿しているコントラストがおもしろいですね。

日本は五輪の後の脱力と、デルタ株や病床逼迫とか、お盆休みとか、なんだか、暮らしのリズムというか気持ちの切り替えがうまくいかない雰囲気が伝わってきます。

異常気象、気候変動のニュースも落ち着きませんね、
でも、私たちのように、恵まれた時代を生きてこれた世代で、パンデミーにも持ちこたえているのですから、この僥倖を何とか次世代に還元していきましょう。

ブログの更新も楽しみに待っていますね。

頼りになる奥様にもよろしく。
 

花に魅せられて

 投稿者:小寄道  投稿日:2021年 8月14日(土)01時11分43秒
  ご無沙汰しておりました。
Sekkoさまが花の写真を載せていたので、なんかワクワクしてコメントしてしまいます。。

まず、お友達の庭の花です。白い花に引きつけられました。
最初、ユーチャリスかなと思いましたが、白い桔梗ですね。中心に淡い紫がさしているんでしょうか。
上品であり凛々しくもある。小生の好みであります。

白い斑入りの葉の植物も珍しいベゴニアの仲間でしょうか、たぶん。

三つ目はカラテアの仲間だと思います。対称的な葉っぱの線の模様は独特で、ちょっと言葉にならない強さがありますね。
日本ではオルビフォリア種がけっこう人気らしく、メルカリでは人気の観葉植物とのこと(妻からの受けうり)。

最後のものは「Decorum」という名札がありました。石楠花(シャクナゲ)と読めますが、でもこれは低木種。
写真のものは葉から咲いた花で、明らかに名札は間違ってさしたような気がします。
妻のアドバイスで、グーグルの「レンズ」(google lenz)というアプリで検索したら、蘭科のクルクリゴみたいです。
この花も可憐に見えて、たくましい生命力を感じます。
最初、葉っぱを観て、菖蒲の類いかと思いましたが・・。オーキッドでも、この葉っぱの多さは面白い。お求めやすい?

最後に、ちかごろブログを書く原泉を失っています。オリンピックとコロナの熱狂に少々あたっています。
では、お身体にお気をつけて・・。
 

hanakogainai さま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年 7月31日(土)18時13分59秒
  hanakogainai さま、(ハンドルネームが気になります。「hanakoさん」がいなくなった哀しみの名前ならと、心配になりました。勘違いだったら余計なお世話ですみません。)

投稿ありがとうございます。

自著についてネットで検索を一切しないので、少しでもお役に立っていることをこうして知らせてくださること、すごく嬉しいです。書き続けていこうと力づけられます。

「希望」はまさに人生という旅の糧だと実感しました。

あらためて、ありがとうございました。


 

「疫病の精神史 - ユダヤ・キリスト教の穢れと救い」を読んで

 投稿者:hanakogainai  投稿日:2021年 7月31日(土)11時51分59秒
  久し振りに著者の本を手にしました。新型コロナ感染症という大災厄の続くなか、ポスト・コロナのことを予測した書物や、幾つかのコロナに纏わるものを手にしました。どれを読んでもなかなか心晴れず、鬱々とした日を送っていましたが、この本を読み始めて、気持ちが変わりました。未来が開けて、心爽やかになった気分になったのです。著者が、「おわりに」で「対神徳」の「信仰、希望、愛」に触れておられますが、希望という言葉は、「永遠に生きる」とともにこれから大事にしていこうと思いました。  

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